「熟達論」を読んで、やっぱり「遊び」が大事だよねと思った
おはようございます。
先日、為末大氏の熟達論を読みました。この本は面白かった。
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熟達とは何か
本書での「熟達」とは、人間総体としての探求であり、技能と自分が影響しあい相互に高まること。としています。
これだけだとちょっとわからないけど、彼が陸上競技を探求していくうちに、自分という存在を通じて人間を理解していく感覚があって、何かができるようになり、できるようになることで自分自身が変化するというプロセスを熟達と定義したといった感じでしょうか。
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熟達のプロセスは「遊」「型」「観」「心」「空」の五段階
「遊」
すべては遊びからはじまる。遊びは感覚的なものであり、ついやってしまうもの。遊びによって不規則さと面白がる姿勢を身につける。不規則さが身につけばある形に最適化されそこで探求が止まるのを避けられる。
「型」
私たちの思考や行為は習慣が生み出す癖に支配されている。肩を持てば無意識に基本的な動きができる。意識的に型を身体に刷り込み、考えなくてもそれができれば、もっと高度なことが行えるようになる。
「観」
関係と構造を理解することができるようになり、見えていない部分が想像できる。
表面に見えている結果に惑わされることなく、何が重要なことが判別できるようになる。そして本質をつかみ応用できるようになる。
「心」
中心をとらえること。手に入れた型の輪郭が崩れその中心部分だけが身体に残っていく。個性を自覚し表現できるようになる。
「空」
自我がなくなり、今までの前提が大きく変わる。制約から解き放たれ、技能が自然な形で表現される。
こんな風に熟達のプロセスを表現されていました。
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「遊」がなかなかやりづらいけど、これが一番大事な気がした
遊ぶことで、楽しいと感じること、型を意識せず、ただひたすら楽しむことが、のちのち、もっと知りたい、もっと極めたいという欲求に繋がることはすごく良くわかる気がします。
勉強するということをとっても、いろいろ制約が大きいなぁと感じます。
机にじっと座らなければならない、とか、このテキストにこの方法でやる、みたいなことが凄く決まっていて、なんだか、勉強することが、しんどいことだ、歯を食いしばってやるものだみたいな、なんかそういう意識があったなぁと振り返って思いました。
自分の子どもの頃の話ですが・・・。
効率をもとめると、遊ぶということはすごく無駄なことにように思われます。
だけど、必ずどこかで壁にぶつかります。その時に、遊びをして楽しむこと、不規則さを持っておけば、もっとこうしてみようとかっていう探求心というか遊びながら楽しみながら、取り組むことができるんじゃないかな。
最初から型にはめて、効率よく物事に取り組んでいくと、遊びが足りないから結構しんどいと思います。
不規則さを身につけていないので、型にはめた同じやり方を繰り返しがちというか、これが駄目だったから、今度はこうやってみようみたいな自由な発想をすることが比較的難しくなるんじゃないかそんな気がします。
だから熟達のプロセスにおいて、「遊」が最初の土台にくるというのは、私自身すごくしっくりきました。
私はどちらかというと、「型」から入りがちで、「遊」という部分が足りないなということを改めて実感した。振り返ってみて間違いなく「遊」ということが足りていない。
この「遊」をしっかりやっていると想定外のことがあったり、壁にぶつかったときに、「遊」に戻ることができ、そこで新たに気づきがあるとか、そもそも身につけた不規則さで対応することができるとか、かなり大事な部分なんだなと思います。
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新しく学ぶときは「遊」でしっかり楽しむ
子どもの教育に関していっても、やっぱりまずは楽しむことだよね。
こうしなさいとか親が言っちゃいけない。
これはダメかとか、子どもが試行錯誤する能力をはぐくむこと、そのなかで楽しむことが大事で、いちいち親に言われたら、考える楽しさ、探求する楽しさを奪われるし、自分で考えるという機会を奪うことに繋がるよなぁと思いました。
これは大人になった私の話でもそう。
今新しい部署で新しい仕事をしています。仕事ですから、成果は出さなければならない。
だけど、この最初の時期に、まだちょっとした失敗は許されるような感じがするので、遊びを意識して楽しみながら、もっと探求していくことが大事なんじゃないか、そう思いました。
よし、仕事を楽しもう。
最後までお読みいただきありがとうございます。
それではまた。