真の苦しみは、二の矢が刺さるか否かで決まる
最近読んだ本で、面白いなと思ったことがあったので、書いていきます。
「無=最高の状態」鈴木祐
いきなりですが、
原資仏教の教典「雑阿含経(ぞうあごんきょう)」での話です。
今から2500年前、古代インド・マガダ国にて、ゴータマ・ブッダが弟子たちに問題を出しました。
「一般の人も仏弟子も、同じ人間であることに変わりはない。それ故に、仏弟子とて喜びを感じるし、時には不快を感じ、憂いを覚えることもある。それでは、一般の人と仏弟子は何が違うのだろうか???」
その答えを、ブッダは
「一般の人と仏弟子の違いとは、二の矢が刺さるかどうかだ」と答えました。
どういうことか。
生物が生き抜くうえで、ある程度の苦しみは避けられません。捕食者の襲撃、天候不順による飢え、予期せぬ病気など、様々な苦境は誰にも等しく訪れます。あらゆる苦しみはランダムに発生し、予測は困難です。
これがいわゆる”一の矢”です。
この一の矢は、防ぐことができません。
ところが、多くの人は”二の矢”を放ちます。
例えば仮に、私が半身不随になったとします。意識ははっきりしているのに、首から下は動かせず、寝たきりのまま介護を受けるしかありません。このケースでは、半身不随による苦痛そのものが”一の矢”です。
そして、この状況から私は、おそらく、なぜ自分だけがこんな目に遭うのだろうか。身体が動かなくなったら、家族はどうすればいいのか。介護ばかり受けて申し訳ない。もう人生は終わりだ。きっとこんな風に思うと思います。
これが”二の矢”です。
半身不随という最初の矢に反応した脳が様々な思考を生み、ここに付随して表れた新たな怒り、不安、悲しみが次々と私を貫き、いよいよ苦しみは深まっていきます。
実際に半身不随の状態ではなくても、”二の矢”は誰もが経験しているはずです。
むしろ”二の矢”どころか”三の矢”、”四の矢”と次々と自分自身を貫くひとが多いと思います。
私自身もたくさんの矢を放ってしまいがちだろうなと、自分自身を振り返ってそう思います。
こういう最初の悩みがまた別の悩みを呼び込んで、同じ悩みが脳内で反復される状態を、心理学では反芻思考と呼ぶそうです。
牛が食物を胃から口に戻して嚙みなおすように、いったん忘れた過去の失敗や未来の不安を何度も頭の中で繰り返すことこれが、まさに”二の矢””三の矢””四の矢”であり、反芻思考です。
この本について、正直全部は理解できませんでした笑
しかしこの反芻思考を取り除く方法とか考え方とか具体的に書いてありましたし、すごく今の社会を生き抜くうえで、必要なことなのかなと感じました。
私は、仏教徒さんがなぜ修行するのか、興味はありましたが、なんとなくわかったような気になりました。修行の目的の一つとしておそらくこの自分自身で放つ矢を打たなくするためっていうのもあるんじゃないか、そう思いました。
私は仏教徒ではありませんし、そんな簡単にまとめられるものではないと思いますが、本音を言えばそこまで深く理解するほどの気持ちもないので、雑ではありますが簡単に理解させてもらうことにします。
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強く思ったこと
例えば私が”一の矢”を受ける状況にあって、色々思考が巡り、自分自身で”二の矢””三の矢”を放っているということに自分で気が付けば次の矢を抑えることができるんじゃないか、この矢は自分で刺した矢なんだと、意識するだけで、痛みを抑えられるんじゃないかそんな気がしました。
なかなか修行僧でもあるまいし、そんな時間もないので修行する、ということは難しいですが、この矢の存在を意識するということだけでも違うんじゃないかと思います。
事実と解釈を分けるということにもつながるような気もしますね。。。
どうしたって、人間色々考えてしまいます。ある意味そういうネガティブなところがあるから、ここまで発展してきたんだろうなぁ。
だから私としては、今後もたくさんの矢を自分自身に放ってしまうことと思いますが、これはあくまで、自分自身が放った矢であるということは意識しておきたいかなと思いました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
それではまた。