くりりんのブログ

気が向いたときに更新します♪

日本語ってコミュニケーションコストが高すぎるってばよ。

おはようございます。

 

 

今日はコミュニケーションについてかったるいなぁと思うことが最近あったので書いていきたいなぁと思います。

 

日本語についてですが、日本語って話す方より、受け手の方が試される、そんなかんじしませんか?

例えば、電車運転士として仕事をしているとですね。

「この電車のっていけばいい?」とか、「これが一番はやい?」とか聞かれます。

この質問だと答えようがありません。なので、毎回、「どちらまでいかれますか?」とかっていう質問を返すことになります。

なんかね。ムッと嫌な顔をされるんですよね。質問に質問で返すな的な感じなのか。〇〇だよ!とか言われるんですけど、初対面の人がいきなりこの人は○○に行きたいのかなんて、わかるわけないですよ。

 

話をしていて、相手の話を理解できないとき、話を理解できない方が悪いそんな雰囲気があるように感じます。

 

いやぁめんどくさい。

 

伝えたいことがある方が、伝えたいことをしっかり確認してくれた方が、労力が少ないし、確実。

伝えられる側の方は、相手がこういうことを言いたいのかなっていう仮説でしかないわけ。どういうことを伝えたいかっていうのは本当のところ伝える側にしかわからないでしょ。

だから責任をもって伝える側の人間が確認するべきなんじゃないかと思うのです。

日本の察する文化なんですかね。結構これがめんどくさいなぁと思うんですよね。

頼まれた仕事があったとして、わからないことがあれば確認するのは当たり前です。だけどさ、確認する側の方に責任を持たせ過ぎじゃない?察する力みたいのも高い人とは仕事しやすいよね。理解力がある人っていいよね。僕もそうなりたい。

そういうセンスみたいの磨いていきたいよ。だけど、仕事ができない人ほど相手に理解力、察する力を求めすぎなんだよ。ちゃんと伝えて来いよ。

あなたの頭の中は見えないのよ。不明なところは確認するけど、まずは伝える側がもう少し、責任をもって伝えるってことが不足しているんじゃないか。

相手が察してくれるということに胡坐をかいてるんじゃないのか。

 

特にこれからの世の中ってさ、多様性の社会ですよ。同質的な人たちと接していたから、察する文化というものも何とか維持できていた部分もあると思うんだけどさ。

 

これから、多種多様な人と接していく中で、前提条件とか、常識とかも全然違う中で、察するなんて非効率なコミュニケーションなんてやっていけるわけがない。

 

だから、話し手の方が何を伝えたいのかをしっかり持ってさ、相手にそれが伝わっているのかを確認していこうよ。

 

ちょっとね。思うことがありましてこんな感じで書いてみました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

それではまた。