くりりんのブログ

気が向いたときに更新します♪

生い立ち 幼少から今まで (両親の離婚)

今日は私の幼少、少年時代について書きます。誰も興味ありませんね笑

書きたい欲がでてきたので書きます。

 

私は昭和63年に生まれました。4つ上の姉がいました。末っ子長男として産まれました。2年ほど父の会社の社宅で住み、その後17歳まで県営住宅(いわゆる団地)に住みました。

 

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保育園時代について。

私の両親は共働き(母は西友のレジスタッフ)で、保育園のお迎えはいつも最後でした。保育園の先生が、まだ来ないまだ来ないと時間なのにといつも少し怒り気味で、私は、どんどん友達が先に帰っていくので一人になるのが寂しかったことを覚えています。よくお友達とものを投げあったり、殴り合ったり喧嘩した記憶があります。

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 なぜかよく覚えていること。

両親が仕事だったため、保育園の運動会には母方のおばあちゃんが参加してくれて、パン食い競争をいっしょにやったこと、父がクリスマスプレゼントに自転車(当時まだ珍しかったマウンテンバイク)を買ってくれたこと、洗濯機の時計の画面で時計の読み方をなぜか突然教えられてわからず、父に怒鳴られて怖い思いをしたこと。なんだかよくわかりませんがそんなことが強く印象に残っています。

 

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小学校時代

 入学したとき、1,2年生の時の担任のF先生には非常に厳しく目をつけられていました。入学式の日に私がその担任のことを良く思っていなかったらしく、目も合わせず口も利かなかったからでしょうか。先生は、この子は自閉症あるいは今でいう発達障害なんじゃないかと私の母親に言ってきたそうです。そこに校長先生が来たら、私は校長先生とは普通に話していて、どうやらそのころから私の気難しさが出ていたようです。しかし担任のF先生は、よく思っていなく、そこから私への当たりが強くなったのかなと思います。

 私自身が問題児であったことは間違いありません。たとえば登下校中に喧嘩したり、宿題をやってこなかったり、授業中の態度が悪かったり、ひどいものでした。

 しかし、F先生は何か問題があるたびに私のせいにしてみんなの前で叱りつけていました。しかし許せなかったのは、ピアニカの口をつける部分(パイプっていうそうです)を私にだけくれませんでした。なので私だけ音楽の授業でピアニカをすることができませんでした。これは私に対する罰だったようですが、この罰はいったい何だったのか意味がいまだにわかりません。こういう理由がない罰に対する嫌悪感の強さというのは、もしかしたらこの時に生まれたのかもしれません。

 

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両親の離婚

 私が小学2年生の時(8歳)、両親が離婚しました。ある日の夜に、両親がものすごい剣幕で喧嘩していました。それから数日後、母から離婚することになった。ごめん。と言われ、父と母のどちらのもとに行くか選択を迫られました。その時の私は、父も母も大好きでしたが、母親についていくことに決めました。今思えばこの時の選択は人生最大の選択で人生を大きく左右したんだろうなと思います。

 私の母はしっかり者で、離婚後の養育費の支払い等をしっかり公正証書にしてとりっぱぐれないようにしていました。今から30年近く前に、ネットもまだない時代に、しっかりと情報収集をしていたんだと深く感心しています。離婚の原因はしっかりと聞いていません。数年前に父が離婚の原因について話そうとしていたところを、私はあまり知りたくもなかったので、聞きたくないといい、聞きませんでした。どうせ不倫とかそんな理由だと思っていますが、理由を知ったところで何を思えばいいのかわかりません。

知らない方がいいことが世の中にはたくさんあるよなと考え聞きませんでした。

 離婚する家庭というのは、私が子供のころは、まだ少なく、せいぜい一クラスに一人いるか、いないかぐらいの割合で、母も私たちがそのことでいじめられないように、苗字を変えずにいるという選択をしてくれました。当時の私にとってはありがたい話でした。父は養育費を一度も滞りなく払ってくれ、不定期ではありましたが月に一回以上は会っていたと記憶しています。母はパートを掛け持ちし私たちを育ててくれましたが、私はいわゆるかぎっ子と言われる子供で、家に帰ってもだれもいないので、ネックレスのように鍵を首につけていました。今思えばすごく寂しかったなぁと思いますし、あのころには戻りたくないと思います。

 

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荒れていた時代

 私は17歳になるまでは団地に住んでいました。団地に住んでいる人たちって、こういういい方はよくありませんが、気を悪くしたら申し訳ないのですが、民度というものでいったらあまり良くない傾向があると思います。まして、私は団地住まいでシングルマザーでとなったら、関わる友達というものが悪い子たちばっかりでした。

 そのためあまり授業にはでず、不良連中とつるみ授業もでなかったり、態度が悪かったり、授業中に大富豪などのトランプやUNOなどカードゲームをしたりろくな小学校生活を送っていませんでした。また私は直接は関わっていませんでしたが、万引きをしたり、自転車や原付を盗むなど、犯罪といえる行為を繰り返すような人たちと同じグループにいました。中学校2年生になるまではずっとそんな感じでした。成績も五段階評価で1と2しかない、そんなどうしようもない学生生活をしていました。

 

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勉強に目覚めた

 私は中学に入ると野球部に入りました。以前、父に少年野球に入らせてもらいたいと頼みましたが、「俺が教えてやる」といったきり、教えてくれることもなく、たまにキャッチボールして、父は満足していました。私は少年野球にはいってみんなと野球がしたかった。中学に入ると父がグローブやらの道具のお金を出してくれるとのことでしたので、野球部に入ることができました。少年野球をやっていた人たちよりもはるかに下手糞で、練習方法も全然わからず、かなりしんどかったのを覚えています。中学一年生の夏休みに部活に行くのが今度は、嫌で嫌で仕方がなくなりました。

入部してしまったからには仕方がないと思い、誰よりも声をだして練習に励んでいると次第にまわりから認められ、徐々に上達し、二年生の夏にはレギュラーになることができました。うれしかったなぁ。そして三年生が引退し、ついに私の時代がくるかと期待していました。

 ところが、顧問の先生から、成績が悪い奴は絶対に試合には出さないと、野球部員全員が集まっている中でいわれました。私の成績は部活内でぶっちぎりで悪かったのです。そこで仕方がないので、勉強を始めてみましたが全くついていけません。勉強してもテストの点数が伸びず、周りからはかなりバカにされていました。それでも勉強を続けていると、なんとなく勉強の要領がわかってきて、勉強がわかると次第に楽しくなってきて、2年生の終わりには五段階評価で4と5だけになりました。

 

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勉強に目覚めて失ったもの

 勉強に目覚めたことで、不良の友達からは、お前変わったなと、距離を置かれることになります。私にはその不良の友達しか、気の許せる友達はいませんでしたのでつらかったです。ところが、悪い友達と距離を置くことで、今度はまた違う友達ができていくという経験がありました。これは私にとっては、非常に大きな経験でした。

何かを手放すことで、新しい何かが手に入るんだと、私は理解しました。この時の経験は、悪い習慣とか悪い関係とか、私にとって手放しにくいものを手放すことが、心理的に容易になりました。

 

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高校受験で不合格

 私の学区で一番の進学校に受験させてもらいましたが、力及ばず不合格でした。そこで滑り止めの私立の高校に通わせてもらいました。これは本当に親不孝だったなと今でも強く思いますし、父からは、恨みのようにお前が合格していればと言われています。

高校ではラグビー部にはいりました。野球を続けようと思ったのですが、野球部の哲学みたいなものに嫌気がさしていました。それは、走った後に水を飲むと走った意味がなくなる(昔はそんなことを言う人がいたんです)とか、そもそも丸坊主にする意味も分かりませんし、そういう考え方が気持ち悪いなと思っていて、受け入れられませんでした。ラグビー部は意外と水分はとるべきとか、トレーニングの仕方が合理的で意味があることをやっているというか、納得できるものでした。

 

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進学

私にはやりたいことが全くありませんでした。まったくないので勉強をやっても、何をやっても中途半端でした。そこで何となくで農学系の大学に進学しました。

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大学時代

 ここでも私にとっての暗黒時代が始まります。大学生のコンパのノリについていけず、飲み会のコールとかもう、全然楽しめませんでしたし、特にやりたいこともないですし、とにかくつまらなかったのです。それなりに恋愛もし、大学生っぽいことを経験したのですが、高い学費に見合うものを得たとは思えない、とりあえず大卒という資格を得た、そんな時代でした。

 

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就職

 全くやりたいことがないという本当にダメダメな人間でした。コンビニでバイトをしていたことと、コンビニの商品開発ってちょっとかっこいいなと思い、そんな理由でコンビニの本社に入社し店長をやっていました。激務でしたが意外と生きてるなって実感があり、やりがいはありました。目まぐるしい日々を過ごしていました。

 ところが、店長としてお店を運営しているうちに、本社での不正まがいのことが少しづつわかってきました。無駄に正義感の強い私はそれを次第に受け入れることができませんでした。賃金に関すること、商品に関すること、イベント商材(クリスマスケーキ等の社員の買い込み)など、この不正に自分が関わることが許せなくなってきました。

そこで転職しようと転職しました。

 

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転職(職をコロコロと転がっていました。)

 コンビニ会社を辞めた後は、職を転々とし、なんだかわからないまま鉄道会社に入社しました。そこですでに10年以上勤めるようになり、やっとキャリアを築けるようになりました。

 

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自分の離婚

 私は両親の離婚でかなり寂しい思いをしたと思い、もう離婚なんて絶対しないんだ!と思っていました。が、離婚に至りました。もう本当に自分にガッカリ。どう考えてもこのまま結婚生活を継続しても二人が幸せになるとは考えられなかったということもあり、これは離婚するしかないだろうということで離婚しました。私的にやれることは全部やったかなと思い、悔いはありませんでした。ただ、まさか自分が離婚するなんてとショックでした。

 

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今度は結婚

 私は子供の時に、何かを手放すと新しい何かがすぅっと入ってくるという経験がありますし、何かそういうものを信じていました。だからかなのか、離婚してすぐに今の妻と会いました。妻との出会いについては、別のブログに書いています。

興味があれば読んでください。

 やはり新しい何かを手に入れたいのであれば、何かを手放さないといけないんだなぁと思います。これは間違いなくあると思います。

 

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父、母との関係

私の父と母の関係は不思議なものです。両親は再婚していません。父も母も普段連絡をとることはありませんが、姉を介して連絡を取ることもあるそうです。

私の二度の結婚式には、父と母も出席してくれました。こういうパターンてあまりないように思いますね。今は私にもこどもができましたので、たまに父と母一緒に会いに来てくれますし、ごはんを食べに行くこともあります。不思議な関係です。妻には不思議がられます。

 

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父に対して思うこと

私は父とそりが合わないというか、考え方が全然違いますし、長時間一緒にいることができません。一緒に住んでいた期間が短いからということもあるとは思いますが、心から家族として接することができません。

子どものころ、床屋に行かしてもらうことができず、「俺が切ってやる」といって切ってもらっていたのですが、次の日に学校に行くとクラスのみんなに笑われ、キノコみたいな頭だったので、キノコと陰口をたたかれていました。当時は床屋に行くと3000円くらいは普通にかかっていたので、今みたいに安く行けるところはありませんでした。

父の「俺が〇〇してやる」シリーズが本当に嫌でした。俺が教えてやるといっても、たまに気が向いたときに少しやってくれるだけでしたし、いまだにその負の感情が消えません。

外食をするときに店員さんをイジメようとすることも見ていられません。男尊女卑的な思想も強いですし、多趣味なこともあり、自分の趣味を優先するばかりで、私たちに時間とお金をかけてくれることはありませんでした。自分に子どもができてから、なお、私は父は父親としては本当にとんでもない人だなという思いを強くしました。私は父を反面教師にして、子育てをしていきたいと思っているくらいです。

両親が離婚することで、私自身荒れてしまった部分はあるかもしれません。ですが、両親が離婚してくれたおかげで、最悪の事態は免れたのかなぁという思いもあります。

もし、父と一緒に生活していたら間違いなく私は、父と反発してしまっていたと思います。相当に荒れてしまっていたと思います。両親の離婚というものは、私自身ものすごく悲しい出来事でしたし、死ぬまで絶対に忘れないぐらいの出来事であることは間違いないのですが、今思えば、あの離婚がなかったらどうなっていたのだろうか、怖いとすら思います。あの頃の自分に、この離婚はお前のためだったんだと言ってやりたいぐらいです。

 

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母に対して思うこと

母は本当に放任主義でした。放任というかほったらかしでした笑

仕事で忙しかったのもあるかと思いますが、母に叱られたことはほとんどありません。叱られない子はダメだという考え方もあるかもしれませんが、私はそう思いません。

子どものころは、食べ物の好き嫌いが激しかった私に対して、大人になれば食べられるようになると言って、無理強いしませんでした。学校の給食でも私は食べないものは本当に食べません。給食で食べなくて立たされることもありましたし、授業を受けられないこともありました。そのことで母親に連絡がいくこともありましたが、母は食べたくないって言ってんだから無理強いしないでくださいと言っていました。

結果、今では私は食事について好き嫌いはほとんどありません。好きとか嫌いとかってことを罰によって直させることなんてできません。

母が私をほったらかしてくれたおかげで、時間はかかりましたが、今では自分で考えて、責任をとって生きていくことができるようになったと思います。

 

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今後の目標

産まれてからこれまで、結構波のある人生を送ってきたかと思っていますが、これからは良い波に乗っていく人生を送っていきたいと思います。私を拾ってくれた会社にも貢献していきたいですし、妻、子供と幸せな人生を送っていきたいです。

そのためにも収入をあげていきたいので、副業も頑張って、自分自身を成長させていきます。お金は血液みたいなもので、流れが止まったら死に直結します。だからしっかり稼ぐ力をつけていくということが当面の目標です。

会社員として仕事をして貢献して給料をもらい、勤務時間以外での複数の収入経路を何本か持っていきたいと思っています。

仕事の面で、今は電車の運転士として仕事をしていますが、今後は別の部門にいってまた学べればと画策しております。ダイヤを作成する仕事を狙っています。

 

 

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。